9月8日から、ラグビーワールドカップ2023が行われていました!決勝まで勝ち残ったのはニュージーランドと南アフリカで、世界ランキング2位と1位による白熱した試合が行われました!優勝した南アフリカのスプリングボクス、おめでとうございます!

世界ランキング12位に位置している日本は、健闘したものの残念ながらリーグ突破とはなりませんでした。世界ランキング上位の国々を見ていくと、

1位🥇南アフリカ
2位🥈ニュージーランド
3位🥉アイルランド
4位フランス
5位イングランド
12位日本
21位ナミビア
31位ジンバブエ
33位ケニア
引用:https://rugby-rp.com/worldrank

となっています。このように、南アフリカ以外のアフリカの国々は上位に多くランクインしているわけではありません。ではなぜ南アフリカはここまでラグビーが強いのでしょうか?現地の方々の様子も交えながらご紹介していきます!


元記事:

https://www.funtimesmagazine.com/2023/02/08/425615/a-history-of-rugby-in-south-africa-from-the-19th-century-to-today

“A History Of Rugby In South Africa: From The 19th Century To Today”

ラグビーの歴史

ラグビーの歴史は諸説ありますが、1823年にまで遡るようです。イギリスのウォリックシャーにあるラグビー校で、ウィリアム・ウェブ・エリスがフットボールの試合中にボールを持ってゴールまで走ったことが由来ではないかとする説があります。その後、ルールが徐々に決められていき、1871年にラグビー・フットボール・ユニオン (Rugby Football Union)によって正式なルールが決められたようです。

ちなみに、ラグビーワールドカップのトロフィーはウェブ・エリス・カップ(Webb Ellis Cup)と呼ばれ、彼の名前にちなんで付けられているようです。

初めてオリンピックの競技として認められたのは1900年のことで、その後1987年に最初のラグビーワールドカップがニュージーランドとオーストラリアで開催されたとのことです。(参考資料

ラグビーは「紳士のスポーツ」として広まり、フェアプレーや規律が重んじられています。にも関わらず、ラグビーには白人至上主義を助長するような、人種差別的な面があったとのことです。

では、人口の80%もが黒人を占める南アフリカで、なぜラグビーが普及していったのでしょうか?

南アフリカとラグビー

ラグビーは19世紀にイギリスの宣教師や兵士、入植者らによって南アフリカに伝わりました。というのも、南アフリカは1875年から1961年に独立するまでイギリスによって植民地化されていたのです。そのため、イギリス人によって広められ、その後現地の人々に楽しまれるようになりました。

20世紀初頭頃には国民的スポーツとして確立していき、 1891 年に最初のラグビー協会を設立、1903 年に代表チームが初めてニュージーランドとのテストマッチを行ったとのことです。その後、たくさんの人がプレーし、観戦し、楽しまれるスポーツとなっていきました。

それにより、ラグビーは南アフリカに多大なる経済効果をもたらしてきました。世界中のファンが買い求めるチケット、グッズや放映権などにより多大なる利益をもたらしているとのことです。ラグビーによって得られた資金は、医療や教育などにも使われているとのことです。

南アフリカのチームはスプリングボクスという名称で多くの南アフリカの人々に愛されています。スプリングボックと呼ばれる南アフリカを代表するような動物が由来とされています。緑と黄色のユニフォームが特徴的なチームです。南アフリカ国内には様々な人種が存在し、人種間における摩擦、対立などが多く行われてきた歴史があります。そういった対立の中でも、ラグビーはお互いを結びつけるために使われていたとのことです。

しかし、アパルトヘイト政策はラグビーにおいても人種分離を行っていきました。当時、白人選手しか代表チームとしてプレーすることが許されておらず、そのため黒人プレイヤーがトップレベルのトレーニングを行ったり、施設を利用したりすることは難しかったとされています。またアクセスできるように改革が行われたとしても、多くの黒人選手は栄養失調により、白人選手ほど十分な練習ができなかったということです。

このような人種差別政策の結果、南アフリカ代表は国際社会からの非難を受け、ライバルチームとの試合が行えなくなっていきました。ニュージーランド代表チームが南アフリカへの遠征をキャンセルする他、南アフリカ代表チームがニュージーランドに遠征すると大規模な抗議が起き、試合が中止されるなど、南アフリカは国際的に孤立していきました。

そのため、1987年最初のラグビーワールドカップへの参加は叶いませんでした。このままではいけないとラグビー界は動き出し、1992年にSouth African Rugby Football Union(SARFU)という非人種的なラグビー団体が設立され、1994年にアパルトヘイトが廃絶されたことにより、少しずつ改善の兆しが見え始めたとのことです。(参考記事

しかし、現在でもアパルトヘイト時代の名残が残っているとされています。長年ラグビー南アフリカ代表は1人か2人程度の黒人選手しか採用されていなかったとのことです。1995年時点では、チームはほとんど白人選手で構成されており、チェスター・ウィリアムズ選手が唯一のカラードとして出場していました。2007年になっても、JP・ピーターセン選手とブライアン・ハバナ選手の2名以外は全て白人の選手でした。(参考記事

しかし徐々に状況は変化していきました。2018年、シヤ・コリシ選手が南アフリカで初めて黒人として主将となりました。彼は、貧困地域で育ったものの、奨学金でラグビー強豪校に進学。現在では貧困層を救うための財団を設立し、自身で支援活動を行っているとのことです。(参考記事)彼は、異なる背景を持つ者同士は団結することができるインタビューで語っています。

2019年のザ・ラグビーチャンピオンシップ(南アフリカ代表、オーストラリア代表、ニュージーランド代表、アルゼンチン代表による国際リーグ戦)では、8名の黒人選手が試合に起用され、ベンチを含めて11名の黒人選手が採用されたとのことです。ラグビーではベンチの選手を合わせて23名で構成されるため、48%が黒人選手を占めていたことになります。

今後の課題として、黒人のトッププレイヤーを如何にして見つけ、選手として起用されるレベルに育てるかがあげられています。ラグビーの強豪校へのアクセスや高い質のトレーニングの提供など、課題はまだまだあります。

南アフリカ現地の状況

ワールドカップ決勝戦前後の南アフリカはというと、非常に活気に溢れ、多くの人がラグビーを楽しんでいました。決勝直前の高速道路の標識には「GO BOKKE!!」と書かれ、優勝が決まった後には皆歌ったり踊ったり、クラクションが鳴りやまなかったりと、お祭り騒ぎでした。

多くの人、特に若者はスポーツバーなどに集まって観戦することが多いようです。他にも、家族でブライ(南アのBBQ)をしながら観るという人も多いようでした。この日は国内が団結してラグビー南アフリカ代表を応援していたように思います。

スポーツは複雑なバックグラウンドを持つ人々の中でも、プレーする側だけでなく観戦する側をも団結させる強い力があると強く実感しました。4年後のスプリングボクスの活躍にも期待しましょう!

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